増田達治 煤墨の世界

 私の書の仕事をより多くの方々に知っていただきたいと思い、昨年の6月に「書人 増田達治」と題するA4サイズのリーフレットを作成しました。そのすぐ後(7/21~26)に控えていたリーガロイヤルギャラリーでの個展に間に合わせるべく、1980年代から2014年までの作品の中から10点(内3点は抽象作品)をピックアップしたものです。
リーフレット表面・5393
 掲載作品は、上から下、左から右の順に、
「花」 102㎜×149.5㎜
「母」 481×333(母を草書体で書いています)
「抽象5」 552×820
「桃花如霞 良寛詩より」 335×494
「かのときにいひそびれたるたいせつのことばはいまもむねにのこれど 石川啄木歌」 334×243

 裏面の作品は、
「抽象1」 754×1407
「園 紅梅白梅」 334×243
「君が居るまがねの窓は狭けれど天地(あめつち)のごとゆたけくおもほゆ 正岡子規歌」 334×241
「劇的」 754×1407
「抽象28」 182×326.5です。
リーフレット裏面・5395
 因みに、この中で最も若い時代(1980年代)の作品は、「かのときにいひそびれたるたいせつのことばはいまもむねにのこれど 石川啄木歌」。30代半ばの作品です。

 また、簡単な作家紹介(PROFILE)と、これまでの個展でいただいた観者さんからの沢山の声(RECOMMEND)の中からほんの一部を掲載させていただきました。

 わずかな点数ではありますが、私の作品世界のほんの一端でもを知っていただけるのでは…と様々な機会に配布しています。

 先日、JR大阪駅から北へ徒歩約7分の「芝田町画廊」へ「樫原雅邦書展」を観に行きました。
 
  樫原氏は府立高校で教鞭を執る今や大ベテランの書道の先生。3月の始めに届いた案内状の作品は彼の書作への真摯な姿勢を窺わせるもので、とても好感の持てるものでした。
 
  その案内状となった作品がこの「乾坤」。 96㎝×180㎝の大きな作品です。
H28樫原展5386
 この作品は文字に、そして言葉に真正面に向き合っています。全く外連味のない作品で、派手な演出も、わざとらしいデフォルメも、これ見よがしの筆捌きもありません。一点一画、真面目に堂々と楷書に取組んでいます。
 
  私は彼のそんな姿勢を大いに評価します。
  まさに「乾坤」、不動の天地を思わせる堂々とした存在感のある作品です。  

  そしてもう一点、彼の資質や美点がいい形で現れた作品がこの「圓空」。作品の大きさは60㎝×20㎝くらいだったでしょうか。
H28樫原展5390
 これもとても清々しく気持ちのいい作品です。背筋がピンとしている。いや背骨(骨格)がしっかりと一本真っ直ぐに立っている。そんな印象を受けます。

 この二点からは共に書作へのひたむきな態度が伝わってきて、楷書作品としてとても魅力があります。

 全16点の内、最も多かったのは行書作品で、他に金文や日本語の詩文等もありましたが、楷書は3点でした。しかし、私が圧倒的に存在感と彼らしさを感じたのは楷書作品であり、残念ながら楷書以外の作品にはいわゆる書家さんが書いたような雰囲気が残っていました。
 
 それは彼にしか書けない作品、彼でなければできない仕事ではなく、どこかで誰かが書いていた作品、言わばこれまでに大量に再生・量産されてきた過去の仕事に属するということであり、楷書作品に認められるような「これぞまさに樫原雅邦!」、と感じさせるようなものではなかったということです。   
 
 つまり、良寛が俗物として嫌い、井上有一が「お書家先生たちの顔へエナメルでもぶっかけてやれ」と言って嘲笑し、そしてまた私も「書壇」という師弟継承型お手本主義の非創造的似非芸術家集団として閉鎖的なピラミッド型のムラ社会を形成して弟子たちのかけがえのない個性を奪い続ける存在(過激?な表現で申し訳ありません。ただ、全ての人がそうだとは言えないにしても基本的にはそういうシステムであり、体質なのです。)として批判するところの、社中(一門)組織に生きる書家さん達が作る作品の発想や臭(にお)いを払い切れていないということです。
 
 しかし、彼にはもうこのような書家的残滓は全く必要ないのです。

 楷書作品とその他の行書作品などとの間には実は大変大きな隔たり、溝があると思います。それは技術的なことではなく、制作に対する意識や発想の問題です。いや、書作家としての“覚悟”あるいは“生き方”と言った方が正しいかもしれません。 

 もちろん、個展の全体構成としてはある程度の作品の多様性とバラエティも必要でしょう。しかし、こんなのもやってます、あんなのも書けます。というようなものは全く不要です。

 今後の彼の個展では、これまでの金文や行書作品と同じようなものを展示する必要はないと思います。いや、そのような作品を制作する(書く)必要もないのです。そんなものは吹っ切るのです。
 
 その代りに腹を決めて、今回の楷書作品のような意識と発想の、真正面から取り組む真剣勝負の作品(勿論、楷書以外でもいい…)で会場の全てを埋め尽くしたならば、どれだけの迫力と存在感、そして「樫原雅邦」を表現することが出来るでしょう!

 どの作品を見ても、どの部分を切り取っても、これが樫原雅邦だという世界を堂々と自信を持って提示すればいいのです。その片鱗と可能性が彼の楷書作品には確かにあると思います。

 楷書を作品として成立させることはなかなか難しいことであり、真っ直ぐで素朴な魅力のある創造的な楷書作品は今日、ほとんど見かけることはありません。

 どんな言葉、どの書体でも勿論、作品は可能です。しかし芸術としての書の今日性を考える時、誰もが読めて意味の分かる楷書体は、その造形性と意味の伝達性において極めて今日的であると思います。
 
 構築的、構造的で、一点一画が文字の骨格として歴然たる存在としてある楷書には現代美術としての可能性、未来があるのではないでしょうか! 

 今回の彼の楷書作品には決して人真似ではない、彼自身が辿り着いた世界があると思います。自らの個性や創造性が巧まずして表現されており、さらなる飛躍が期待されるところです。
 
 良寛に限らず、有一に限らず、書家の書などは見たくない。芸術家の書が見たいのです。

 きらりと光る一点、それはこの府立金岡高校の書道担当教諭、小林真由香さんの作品です。
 
 全64点の中で、私にはこの一点が全く違った作品に見えました。
教員展5337
 何が違ったのかというと、この一点は、既に誰かが書いていたような作品、あるいは以前どこかで見たことがあるような作品ではなかったということです。つまり、その作品世界が過去のものではなく、決して亜流や物真似ではない彼女自身の現在進行形の創作行為の中から生まれたものだったということです。
 
 彼女は真摯に自分の世界を切り拓こうとしている、そんな一途な姿を私はこの作品から感じました。そして志を持って書を学ぶ若い人たちには是非、彼女のこの姿勢を見習ってほしいと切に願うのです。
 
 でもこんなことは当たり前のことだと私は思っています。
 作品は、どこにでもあるようなありきたりのものや誰にでも書けるようなものではやはり面白くないし、何かその人らしい独自の世界や今までにない新鮮なもの、個性的な要素がなければ魅力がないでしょう。
 
 人は一人一人顔や性格、考え方、そして人生そのものがそれぞれ全く異なるように、書の作品もまた一人一人違う顔や個性を持つのが自然、当然のことだと私は思います。

 しかし、こんな当たり前のことが普通に当たり前に通用しないのが書壇というところ。今もって生き続ける師弟継承やお手本主義の書道の世界からは、どれもこれも似たり寄ったりのコピー作品のようなものばかりで、創造的で個性に溢れる新しい作品世界はほとんど生まれようがありません。 

 残念ながら、今回の「教員展」においても、何点かの好感の持てる力作や可能性を感じる作品もありましたが、多くの作品はあともう少しの努力、そして何よりもまず、“書芸術や“作品”ということに対する意識や考え方の大変革・大転換が必要だと感じるのです。

 さて、この小林さんの作品「放つ」(作品題は、「解き放つ」)は、半紙一枚ほどの小さな紙面の中を実に大きく動いています。
小林作品5337
 線は細く、余白を広く取っていて作品空間は大きくゆったりとしています。しかし、わずか9本(九画)ながら、その線は太細や墨量の変化などの多様性を伴いながら、スピード感を持って決然として書かれており、緊張感(あるいは緊迫感)と強さを内包しているように感じます。

 また、構成や空間処理も新鮮です。書作品は縦書き、横書きがほとんどで、上から下へ、あるいは右から左(または左から右)へと言葉通りに文字を書き連ねていきますが、今回の小林さんの作品は、紙面左上から始まり、右下へとまさに対角線を切り裂くように書き進んでいます。

 “放”の旁部分“攵”の線と動きはとてもおおらかに無造作で心地よく、その右下の“つ”がそれを引き締めるように絶妙の墨量と位置、動き・形で受け止めています。もしこの“つ”が“放”の真下辺りに来ていたら、一挙に平凡なものになっていたでしょう。また印の位置がこの構成をより緊密なものにしています。

 しかし、深読みかもしれませんが、この作品は決して何らかの解放感やご本人が作品説明の中で触れておられる“ココロの中のゆとり”から生まれたものではなく、人生の何かにもがき続ける作者の内なる声、自らへの問いかけや叱咤激励なのではないかと想像します。

 授業など日々の実践へのアプローチやその振り返り、生徒との関わりやその成長への見守りなど、毎日繰り返されるであろう自問自答と試行錯誤の中から生まれた彼女自身への渇望の叫びなのかもしれません。
 
 芸術作品、とりわけ書においては技術的な上手下手は第一義ではありません。上手い作品には「感心はしても感動はしない。」とよく言われますが、まさに“感動”は、技術的な上手下手とは全く別の次元の話です。

 この小林さんの作品を観て私がこのような様々な勝手な想像を回らすことができたのも、この作品に感心したからではなく、この何か物語を想像させる独自の表現世界に感動と新鮮さを覚えたからです。

 しかし一方、自らの内的な世界を表現するに過不足のない充分な技術と表現力があったからこそ、この一点が彼女自身の今を表現する作品として成立し得たということもまた、確かな事実です。
 そういう意味で、優れた作品の成立には優れた技術が必要不可欠だと言えるのです。 
 
 技術とは既にあるものではなく、固定的なものでもなく、また誰にでも共通のものでもない、その人だけの固有のもの、自ら編み出し発見し、獲得すべきものです。
 表現者自身、そしてその人の今を表現するのに最も相応しい方法、それを私は“技術”と呼んでいます。

 自らの世界を切り拓くこと、それは自らの独自の技術、表現方法を確立し、更新していくことでもあるのです。

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