先日、JR大阪駅から北へ徒歩約7分の「芝田町画廊」へ「樫原雅邦書展」を観に行きました。
 
  樫原氏は府立高校で教鞭を執る今や大ベテランの書道の先生。3月の始めに届いた案内状の作品は彼の書作への真摯な姿勢を窺わせるもので、とても好感の持てるものでした。
 
  その案内状となった作品がこの「乾坤」。 96㎝×180㎝の大きな作品です。
H28樫原展5386
 この作品は文字に、そして言葉に真正面に向き合っています。全く外連味のない作品で、派手な演出も、わざとらしいデフォルメも、これ見よがしの筆捌きもありません。一点一画、真面目に堂々と楷書に取組んでいます。
 
  私は彼のそんな姿勢を大いに評価します。
  まさに「乾坤」、不動の天地を思わせる堂々とした存在感のある作品です。  

  そしてもう一点、彼の資質や美点がいい形で現れた作品がこの「圓空」。作品の大きさは60㎝×20㎝くらいだったでしょうか。
H28樫原展5390
 これもとても清々しく気持ちのいい作品です。背筋がピンとしている。いや背骨(骨格)がしっかりと一本真っ直ぐに立っている。そんな印象を受けます。

 この二点からは共に書作へのひたむきな態度が伝わってきて、楷書作品としてとても魅力があります。

 全16点の内、最も多かったのは行書作品で、他に金文や日本語の詩文等もありましたが、楷書は3点でした。しかし、私が圧倒的に存在感と彼らしさを感じたのは楷書作品であり、残念ながら楷書以外の作品にはいわゆる書家さんが書いたような雰囲気が残っていました。
 
 それは彼にしか書けない作品、彼でなければできない仕事ではなく、どこかで誰かが書いていた作品、言わばこれまでに大量に再生・量産されてきた過去の仕事に属するということであり、楷書作品に認められるような「これぞまさに樫原雅邦!」、と感じさせるようなものではなかったということです。   
 
 つまり、良寛が俗物として嫌い、井上有一が「お書家先生たちの顔へエナメルでもぶっかけてやれ」と言って嘲笑し、そしてまた私も「書壇」という師弟継承型お手本主義の非創造的似非芸術家集団として閉鎖的なピラミッド型のムラ社会を形成して弟子たちのかけがえのない個性を奪い続ける存在(過激?な表現で申し訳ありません。ただ、全ての人がそうだとは言えないにしても基本的にはそういうシステムであり、体質なのです。)として批判するところの、社中(一門)組織に生きる書家さん達が作る作品の発想や臭(にお)いを払い切れていないということです。
 
 しかし、彼にはもうこのような書家的残滓は全く必要ないのです。

 楷書作品とその他の行書作品などとの間には実は大変大きな隔たり、溝があると思います。それは技術的なことではなく、制作に対する意識や発想の問題です。いや、書作家としての“覚悟”あるいは“生き方”と言った方が正しいかもしれません。 

 もちろん、個展の全体構成としてはある程度の作品の多様性とバラエティも必要でしょう。しかし、こんなのもやってます、あんなのも書けます。というようなものは全く不要です。

 今後の彼の個展では、これまでの金文や行書作品と同じようなものを展示する必要はないと思います。いや、そのような作品を制作する(書く)必要もないのです。そんなものは吹っ切るのです。
 
 その代りに腹を決めて、今回の楷書作品のような意識と発想の、真正面から取り組む真剣勝負の作品(勿論、楷書以外でもいい…)で会場の全てを埋め尽くしたならば、どれだけの迫力と存在感、そして「樫原雅邦」を表現することが出来るでしょう!

 どの作品を見ても、どの部分を切り取っても、これが樫原雅邦だという世界を堂々と自信を持って提示すればいいのです。その片鱗と可能性が彼の楷書作品には確かにあると思います。

 楷書を作品として成立させることはなかなか難しいことであり、真っ直ぐで素朴な魅力のある創造的な楷書作品は今日、ほとんど見かけることはありません。

 どんな言葉、どの書体でも勿論、作品は可能です。しかし芸術としての書の今日性を考える時、誰もが読めて意味の分かる楷書体は、その造形性と意味の伝達性において極めて今日的であると思います。
 
 構築的、構造的で、一点一画が文字の骨格として歴然たる存在としてある楷書には現代美術としての可能性、未来があるのではないでしょうか! 

 今回の彼の楷書作品には決して人真似ではない、彼自身が辿り着いた世界があると思います。自らの個性や創造性が巧まずして表現されており、さらなる飛躍が期待されるところです。
 
 良寛に限らず、有一に限らず、書家の書などは見たくない。芸術家の書が見たいのです。