増田達治 煤墨の世界

2014年01月

 先日紹介の「抽象12」と同じく、抽象制作の初期に取り組んだコラージュによる作品「抽象19」(333×242)です。
⑭抽象19・3749
 コラージュ、といっても煤墨を使って制作した抽象形態の上にカッターで鋭く切り取った一枚の赤い紙を貼り付けただけです。
 しかし、この赤があるのとないのとでは作品の世界は全く違ったものとなります。
 私の美意識や詩情、紙面構成の考え方、バランスの取り方など、私の今現在(いや、もう制作当時の…ですが)がここにあります。
 もちろん、煤墨によるバックの風景だけでもとても美しく面白いのですが、これをさらに自立した独創的な作品にするためには、また全く異なる美的な要素を加えて私ならではの世界を創り出す必要があるのです。

⑭抽象22・3755
 この「抽象22」(333×242)は、中央の縦の溝の辺りに、色鉛筆で赤い線を入れました。
 写真では分かりにくいかと思いますが、全てを一本の赤鉛筆で画いたわけではありません。色相の異なる赤を太細、剛柔、強弱、粗密、遅速などの変化をつけ、多様な線質で画き込んでいます。
 観る人はそんな複雑で細やかな仕事やニュアンスの違いには気がつかないかもしれません。いや、評論家でもない限り、そんなことに気づく必要もないかもしれません。
 しかし、たとえ気がつかなくても、あるいは理由を分析できなくても、確実に、そこに現れた豊かな空間や、さまざまな表情と線質が織りなす多様性の世界を、観る人は無意識の内に心地よいもの、あるいは美しいもの、豊かなものと感じ取っているはずです。
 そして私は、柔らかく流動的で融通無碍な煤墨と赤い線の上に、切れ味の良い鋭角的な鉤型の紙をコラージュしました。
 このようにして、不思議で面白く美しくはあったが、どこか無限定でとりとめのなかった煤墨による白黒の世界は、内臓を得、血が流れ、手足を与えられて有機的な生命を獲得したのです。

 昨年の個展(11/1~6)のタイトルは、「増田達治の書と抽象-私にとっての抽象-」でした。

 二〇代の頃から、私は一つの紙面の中に、書(文字=言葉)のみならず煤墨によるさまざまな模様や平面造形を同時に構成し配置してきました。それは文字、あるいは言葉が置かれる場であり、また私の心象風景でもありました。そしてこれは、私の書作品を成立させる上での重要かつ必然の要素でもありました。

 私はこの多様な美しさと意外性に満ちた不思議な表現力を持つ煤墨の世界を、書のみならず、抽象の世界でも表現してみたい、と実は以前から思っていました。

 そしていよいよ今回、本格的に抽象作品に取り組むことを決意しましたが、制作を始めるに当たって、私は当然ながら、単なる偶然や魅力的で美しい豊かな表現力を持つ煤墨の戯れだけに頼るのではなく、私自身の美意識や世界観を表現しなければならないと考えました。

 昨今、ネット上でも散見する書家(世に出ている人でもほとんどは素人ですが…)が発表している抽象的な作品も、墨をこぼしただけのような単なる偶然模様のようなものばかりであり、そこには創造の跡が見当たりません。またそれ以上に本業であるはずの書作品はさらに幼稚なもので、私から見ればこれらの抽象制作は極めて安易な横滑りであり、困難かつ厳しい書作の世界からの逃避、ごまかしであると言っていいでしょう。(いや、そんな問題意識さえないと思われますが…)
 私の抽象への挑戦はこれらに対するアンチテーゼでもあります。つまり、やるなら本気でやれ、という…。

 ちょっと脱線してしまいましたが、私は作品を偶然から必然へと昇華させるために、まず、コラージュから始めることにしました。
 ⑭抽象12・3778
                    抽象12(410×302.5)

 あけましておめでとうございます。
3956・H26年賀
 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり(斉藤茂吉歌)

 今年もよろしくお願いします。

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