さまざまな事情がありまして、前回の更新から随分時間が経ってしまいました。

それはともかく、次の画像は「作品9」(494.4×335.2)の「動中工夫勝静中百千億倍」です。

江戸時代の臨済宗の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく・1685~1768)は、80歳を越えてからこの言葉を繰り返し揮毫し、説法したそうです。遺偈や遺言というものを一切遺さなかったという白隠が、その最晩年にこの言葉を揮毫してこの世に遺した一軸の書こそが、まさに彼の絶筆であったとのことです。

⑭個展9・3675

しかしこれは白隠の言葉ではなく、南宋時代の臨済僧・大慧宗杲(1089~1163)の語。
読み下せば、「動中の工夫は静中(じょうちゅう)に勝ること百千億倍す」ということになるでしょう。

この「工夫」とは、悟りへの道を極めるための精進をするということですが、座禅をするのに、いたずらに静かなところに籠って修行するよりも、いつであってもどこであっても、生活し行動する中での修行、つまり「動中の工夫」こそが大切であると教えているのだと思います。

これは、作品を創る上でも極めて大切なことであると私は思っています。
作品を制作するには、やはりそれなりの準備が必要です。言葉の意味世界をどう表現するか、構図、構成、造形、マチエール…等々、さまざまに構想を練ることが必要であり、これはまさに「静中の工夫」ということになるでしょう。

しかしいよいよ筆を持ち、紙に向かって制作を始めたその瞬間から、この構想やイメージは捨ててしまわなければなりません。

構想通りに作品を創ろうとすること、これは制作に入れば一瞬にして邪念と化します。自らの構想に囚われていては、新たな世界を切り開こうとする気持ちや創造力がその時点で停滞し、融通無碍な心身の自由自在が失われてしまうからです。このような状態では決して生きた作品は生まれません。

筆を動かし、文字(言葉)を書き進む只中での瞬間瞬間の対応、工夫が書作品の命を決めると言ってもいいでしょう。芸術作品の誕生は一点一回限りのものであり、いくら構想を詳細かつ充分に練り上げ準備したとしても、当然ながら制作はそのコピー作業ではなく、最初の一筆を下したその瞬間から、すでに全く新たな世界、事態が始まっているのです。

この未知の事態に生き生きと対応しなければなりません。書き進み、瞬間瞬間に変化流動していく紙面の世界に臨機応変に対処・対応するのです。まさにこれは「動中の工夫」です。

そしてこの「動中」にこそ、それまでに自らが培い蓄えた経験や知識、教養や哲学・美意識といったものが無意識の内に自然と筆先に現れるのだと思います。

だからこそ、「動中の工夫」には飛躍、成長があるのです。瞬間的な生きた智恵と感性が、今まさに心と体が限りなく素晴らしい集中の中で動いているこの時にこそ発揮されるからでしょう。命が輝き、躍動すると言ってもいいかも知れません。

「静中の工夫」は必要なことですが、思量や分別に近いもの、あるいは大きくジャンプする前の準備運動のようなものかも知れません。

この「静中」に囚われとどまっていては、生きた、あるいは新たに生まれるべき自分が停滞し、死んでしまいます。過去や他者は言うまでもなく、自分自身をコピーすることも芸術の世界では絶対に禁物です。

しかし今日なお、何があろうと延々と非創造的で不毛な師弟継承を続け、組織の維持と拡大に心血を注ぐ営利団体(と言っていいでしょう)たる書壇、社中の人々は、相も変わらずこの禁を犯して何の疑問も反省もなく、平然として智恵も工夫もない無自覚な筋肉運動だけの作品を師匠ともどもピラミッド組織の中で量産しています。

繰り返しますが、思慮分別や常識から解放され、無心に自由自在にその瞬間を生きなければ生き生きとした優れた作品は生まれません。

そしてこの「無心」とは、制作者が最も集中している状態のことであり、何も考えていないのではなく、また何も感じていないのではなく、紙面の隅々にまで神経が行き届き、瞬間瞬間の事の成り行きがはっきりと見え、それに対して最大限の対処・対応が的確にでき、さらに新たな発想と転換を瞬時に生み出し得る状態、つまり優れた「動中工夫」が誕生し得る状態であると私は思っています。

この時、その人の実力そして個性が十全に発揮され、さらにまた一段と飛躍・成長するのだと思うのです。