⑮個展・4650

 今回は46点を展示しましたが、その中から評判の良かった作品を何点か紹介します。
 まず、上の会場風景にも写っている作品23「園」(454.5×348.5)と作品38「夢」(354.5×384)の2点。
⑮個展23・4219
 この「園」の左下のL字型のような強くどっしりとした存在感のある直線と、2画目に当たる上部から右、さらに下部へと連なる動的で軽快な柔らかい曲線。その全く異なる要素のコントラストがとても印象的だ、という声を始め、この作品は多くの方々からご好評をいただくことができました。
 
 自然な筆の動きの中で大胆かつ適度な具合に筆先が割れ、その曲線部分に空気を孕んだような空間が出現しています。さらに紙面からのはみ出しを気にも留めず、スピード感をもって紙面下部からさらに左へと大きく回転し、より一層の柔らかさと優しさ、そして大きさ、豊かさが生まれたかと思います。

 そして右の上部、曲線で草書のように表現された囗(国構=くにがまえ)の線の上に構(かまえ)の中の「袁」の“土”部分がほとんど重なり、乗っかかっています。実は、これは硯で磨った墨では決してありえない表現です。ここに煤墨による表現の一つの特徴があります。 

 煤墨はその使い方によって墨色の濃淡の変化を自由に使い分けることができます。また書き進む中で、時間の経過とともにそのグラデーションがごく自然に変化していく様を表現することもできます。

 そして、薄い煤墨の上に濃い煤墨を乗せて書いても先に書いた下の線と溶けあったり滲んだり、また同一化同質化することなく、くっきりとした輪郭を持つ独立した線として成立させることができるのです。つまり文字としての線、文字を文字として成立させている約束事、「骨格」が決して失われずに表現されるということです。

 この「園」という作品、これがこの形そのままで真っ黒に磨った墨一色で書かれていたら…、と想像してみてください。薄墨の曲線とその上に書かれた“土”の辺りは、3本、4本の線が折り重なっていますが、これが墨一色だとすると、少なくともこの部分は判別のできない黒い塊となってしまいます。つまり、線としての痕跡のない“面”と化してしまいます。

 この、線を失うということは文字の「骨格」を失うということであり、文字ではない単なる模様、オブジェになるということです。意味伝達の機能を失った形、それはもはや文字ではなく、また言葉ではなくなっているということを意味します。これを「書」と呼ぶことはできないでしょう。

 なぜなら、「書とは言葉を文字で書く」芸術だからです。

 私がもしこの時、真っ黒に磨った墨でこれを書いていたとしたら、当然このような造形にはなっていません。黒の上に黒を重ね、一本一本の大切な線を潰してしまうような愚かな選択は決して誰もしないはずです。(いやいや、ところが案外これに近いようなことを結構多くの人がやっているのです…。)
 
 しかし、煤墨にはこの言わば“重ね書き”が可能でした。私は薄い線の上に濃い線を大胆に重ねるということを、瞬間的な判断で無心に無造作に、しかしその効果と仕上がりを充分に想定した上でやっています。

 筆を重ねても文字としての線を成立させ、「骨格」が表現できるということ。これはまさに発見であり、新しい表現でした。そしてまたこれによって書の表現の幅、可能性が広がった、ということができるのです。

⑮個展38・4312
 この「夢」という作品。作品の中央、第10画目の少し右下がりになった太く長い直線。この直線に近いワ冠部分の造形が閃いて、私自身も今までに書いたことのなかったこの「かたち」、この「夢」が誕生しました。