多くの方からご心配や励まし、あるいは催促?の声をいただきました。実に久しぶりの更新です。
昨年の個展(11/7~12)には週に一日だけ講師として書を教えている今宮高校の生徒たちも観に来てくれました。もちろん今宮の卒業生や、かつて二十数年間教諭として勤務していた美原高校の卒業生たちも毎回たくさん来てくれます。
三人の生徒が観ている作品は「森林」(約754×1407)。パネル仕立てのこの作品は畳一畳分よりも大きなものになっています。
私のアトリエ(と言えば聞こえはいいですが、要するに毛氈を敷きっ放しにした制作部屋)ではこの大きさの紙なら一枚を広げるのがやっと。
狭い自宅ではとてつもなく大きく感じる(ちょっと大袈裟!)作品も、広いギャラリーの壁面ではご覧の通りです。
この「森林」、見ての通り五つの「木」で成り立っています。「木」という単純な同じ形のものを五つも組み合わせて作品にするというのはなかなか難しいことで、多くの場合、同じ要素の単なる反復になったり、変化の乏しい単純で退屈な作品になりがちです。
そのためかどうか、「森林」と書いた作品を私は今まで一度も目にしたことがありません。一方、工夫次第ではこの単純な「木」を様々な造形と構成で組み合わせ、面白い作品に仕上げることもまた可能だろうと思います。
今回私は、五つの「木」であることをほとんど意識せずに書いていました。「木」の組み合わせではなく、「森」と「林」という文字を書き、「森林」という言葉とその意味を表現しようとしたのでした。
なぜなら、書は『言葉を文字で書く』芸術であり、決して意匠(デザイン)ではないからです。
そして、よく見ていただければ分かるかと思いますが、いずれも五本ずつある横画、縦画、左払い、右払いの一本一本を、決してどれも平行ではなく、角度や長さ、曲直、太細、墨色、あるいは線や動きなどの表情に、微妙な、実に微妙な変化を加えながら書き進んでおり、決して単調な作品にはなっていないと思います。
しかし、重層的で多様かつ繊細微妙なこれらの変化は書き進む中での瞬間瞬間の判断です。幸運なことに、私はこれをこの最初の一枚で仕上げることができました。もう一枚書きましたが、この一枚目の方が遙かに良い出来でした。
この時私はごく簡単な鉛筆書きのスケッチはありましたが、全体や一点一画の構成についての細かな計画や構想は敢えて持たず、言わば試し書きのような楽な気持ちで書いたのでした。ああしようこうしようと意識して意図的計画的に書き進んだものではありませんでした。
ここに作品創りの一つの要諦があるのではないかと思います。私はこの時、「無心」に近い状態で筆を走らせていたのだと思います。
「無心」とは決して何も考えていない、意識していないということではなく、最も集中している状態のことであり、全てのことに目と手と意識が行き届き、その人の能力が最大限に働き、その実力が最も十全に発揮される状態のことであると私は考えています。
没入し、三昧境に入り、一心に集中してあらゆる事態を把握し、臨機応変に対応することのできる瞬間瞬間の積み重ね、人が最も生き生きと充実して生きている状態のことであると思っています。
これこそまさに「動中工夫」の世界です。
白隠禅師は「動中工夫勝静中百千億倍」(動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す)という大慧宗杲の言葉を繰り返し書にしたためています。
そして最後に印。書の作品ではあまり見られない、いや今までの書の世界ではおおよそあり得ないような位置に押しています。印をどの位置に押すか、あるいは押さないかは自由であり、決して固定観念やお決まりの位置に押すのではなく、作家の意図や考え方によって、どこにどんな印を押すかを決めるのです。様々な筆記具による手書きのサインでももちろん可です。
さて、私の「森林」。作品上部の真ん中より少し右側、ここに一点の鮮やかな赤。これは真昼の深い森に宇宙の遥かから強烈な光と無尽蔵なエネルギーを注ぎ続ける太陽か、はたまた神秘な夜の密林に静かに輝き、やさしく木々を照らす月のようにも見えるかもしれません。いや月や太陽を連想しなくても、この作品「森林」は、印の位置によってさらにひとつの自然、ひとつの風景になったのではないかと思っています。
昨年の個展(11/7~12)には週に一日だけ講師として書を教えている今宮高校の生徒たちも観に来てくれました。もちろん今宮の卒業生や、かつて二十数年間教諭として勤務していた美原高校の卒業生たちも毎回たくさん来てくれます。
三人の生徒が観ている作品は「森林」(約754×1407)。パネル仕立てのこの作品は畳一畳分よりも大きなものになっています。
私のアトリエ(と言えば聞こえはいいですが、要するに毛氈を敷きっ放しにした制作部屋)ではこの大きさの紙なら一枚を広げるのがやっと。
狭い自宅ではとてつもなく大きく感じる(ちょっと大袈裟!)作品も、広いギャラリーの壁面ではご覧の通りです。
この「森林」、見ての通り五つの「木」で成り立っています。「木」という単純な同じ形のものを五つも組み合わせて作品にするというのはなかなか難しいことで、多くの場合、同じ要素の単なる反復になったり、変化の乏しい単純で退屈な作品になりがちです。
そのためかどうか、「森林」と書いた作品を私は今まで一度も目にしたことがありません。一方、工夫次第ではこの単純な「木」を様々な造形と構成で組み合わせ、面白い作品に仕上げることもまた可能だろうと思います。
今回私は、五つの「木」であることをほとんど意識せずに書いていました。「木」の組み合わせではなく、「森」と「林」という文字を書き、「森林」という言葉とその意味を表現しようとしたのでした。
なぜなら、書は『言葉を文字で書く』芸術であり、決して意匠(デザイン)ではないからです。
そして、よく見ていただければ分かるかと思いますが、いずれも五本ずつある横画、縦画、左払い、右払いの一本一本を、決してどれも平行ではなく、角度や長さ、曲直、太細、墨色、あるいは線や動きなどの表情に、微妙な、実に微妙な変化を加えながら書き進んでおり、決して単調な作品にはなっていないと思います。
しかし、重層的で多様かつ繊細微妙なこれらの変化は書き進む中での瞬間瞬間の判断です。幸運なことに、私はこれをこの最初の一枚で仕上げることができました。もう一枚書きましたが、この一枚目の方が遙かに良い出来でした。
この時私はごく簡単な鉛筆書きのスケッチはありましたが、全体や一点一画の構成についての細かな計画や構想は敢えて持たず、言わば試し書きのような楽な気持ちで書いたのでした。ああしようこうしようと意識して意図的計画的に書き進んだものではありませんでした。
ここに作品創りの一つの要諦があるのではないかと思います。私はこの時、「無心」に近い状態で筆を走らせていたのだと思います。
「無心」とは決して何も考えていない、意識していないということではなく、最も集中している状態のことであり、全てのことに目と手と意識が行き届き、その人の能力が最大限に働き、その実力が最も十全に発揮される状態のことであると私は考えています。
没入し、三昧境に入り、一心に集中してあらゆる事態を把握し、臨機応変に対応することのできる瞬間瞬間の積み重ね、人が最も生き生きと充実して生きている状態のことであると思っています。
これこそまさに「動中工夫」の世界です。
白隠禅師は「動中工夫勝静中百千億倍」(動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す)という大慧宗杲の言葉を繰り返し書にしたためています。
そして最後に印。書の作品ではあまり見られない、いや今までの書の世界ではおおよそあり得ないような位置に押しています。印をどの位置に押すか、あるいは押さないかは自由であり、決して固定観念やお決まりの位置に押すのではなく、作家の意図や考え方によって、どこにどんな印を押すかを決めるのです。様々な筆記具による手書きのサインでももちろん可です。
さて、私の「森林」。作品上部の真ん中より少し右側、ここに一点の鮮やかな赤。これは真昼の深い森に宇宙の遥かから強烈な光と無尽蔵なエネルギーを注ぎ続ける太陽か、はたまた神秘な夜の密林に静かに輝き、やさしく木々を照らす月のようにも見えるかもしれません。いや月や太陽を連想しなくても、この作品「森林」は、印の位置によってさらにひとつの自然、ひとつの風景になったのではないかと思っています。