きらりと光る一点、それはこの府立金岡高校の書道担当教諭、小林真由香さんの作品です。
全64点の中で、私にはこの一点が全く違った作品に見えました。
何が違ったのかというと、この一点は、既に誰かが書いていたような作品、あるいは以前どこかで見たことがあるような作品ではなかったということです。つまり、その作品世界が過去のものではなく、決して亜流や物真似ではない彼女自身の現在進行形の創作行為の中から生まれたものだったということです。
彼女は真摯に自分の世界を切り拓こうとしている、そんな一途な姿を私はこの作品から感じました。そして志を持って書を学ぶ若い人たちには是非、彼女のこの姿勢を見習ってほしいと切に願うのです。
でもこんなことは当たり前のことだと私は思っています。
作品は、どこにでもあるようなありきたりのものや誰にでも書けるようなものではやはり面白くないし、何かその人らしい独自の世界や今までにない新鮮なもの、個性的な要素がなければ魅力がないでしょう。
人は一人一人顔や性格、考え方、そして人生そのものがそれぞれ全く異なるように、書の作品もまた一人一人違う顔や個性を持つのが自然、当然のことだと私は思います。
しかし、こんな当たり前のことが普通に当たり前に通用しないのが書壇というところ。今もって生き続ける師弟継承やお手本主義の書道の世界からは、どれもこれも似たり寄ったりのコピー作品のようなものばかりで、創造的で個性に溢れる新しい作品世界はほとんど生まれようがありません。
残念ながら、今回の「教員展」においても、何点かの好感の持てる力作や可能性を感じる作品もありましたが、多くの作品はあともう少しの努力、そして何よりもまず、“書芸術や“作品”ということに対する意識や考え方の大変革・大転換が必要だと感じるのです。
さて、この小林さんの作品「放つ」(作品題は、「解き放つ」)は、半紙一枚ほどの小さな紙面の中を実に大きく動いています。
線は細く、余白を広く取っていて作品空間は大きくゆったりとしています。しかし、わずか9本(九画)ながら、その線は太細や墨量の変化などの多様性を伴いながら、スピード感を持って決然として書かれており、緊張感(あるいは緊迫感)と強さを内包しているように感じます。
また、構成や空間処理も新鮮です。書作品は縦書き、横書きがほとんどで、上から下へ、あるいは右から左(または左から右)へと言葉通りに文字を書き連ねていきますが、今回の小林さんの作品は、紙面左上から始まり、右下へとまさに対角線を切り裂くように書き進んでいます。
“放”の旁部分“攵”の線と動きはとてもおおらかに無造作で心地よく、その右下の“つ”がそれを引き締めるように絶妙の墨量と位置、動き・形で受け止めています。もしこの“つ”が“放”の真下辺りに来ていたら、一挙に平凡なものになっていたでしょう。また印の位置がこの構成をより緊密なものにしています。
しかし、深読みかもしれませんが、この作品は決して何らかの解放感やご本人が作品説明の中で触れておられる“ココロの中のゆとり”から生まれたものではなく、人生の何かにもがき続ける作者の内なる声、自らへの問いかけや叱咤激励なのではないかと想像します。
授業など日々の実践へのアプローチやその振り返り、生徒との関わりやその成長への見守りなど、毎日繰り返されるであろう自問自答と試行錯誤の中から生まれた彼女自身への渇望の叫びなのかもしれません。
芸術作品、とりわけ書においては技術的な上手下手は第一義ではありません。上手い作品には「感心はしても感動はしない。」とよく言われますが、まさに“感動”は、技術的な上手下手とは全く別の次元の話です。
この小林さんの作品を観て私がこのような様々な勝手な想像を回らすことができたのも、この作品に感心したからではなく、この何か物語を想像させる独自の表現世界に感動と新鮮さを覚えたからです。
しかし一方、自らの内的な世界を表現するに過不足のない充分な技術と表現力があったからこそ、この一点が彼女自身の今を表現する作品として成立し得たということもまた、確かな事実です。
そういう意味で、優れた作品の成立には優れた技術が必要不可欠だと言えるのです。
技術とは既にあるものではなく、固定的なものでもなく、また誰にでも共通のものでもない、その人だけの固有のもの、自ら編み出し発見し、獲得すべきものです。
表現者自身、そしてその人の今を表現するのに最も相応しい方法、それを私は“技術”と呼んでいます。
自らの世界を切り拓くこと、それは自らの独自の技術、表現方法を確立し、更新していくことでもあるのです。
全64点の中で、私にはこの一点が全く違った作品に見えました。
何が違ったのかというと、この一点は、既に誰かが書いていたような作品、あるいは以前どこかで見たことがあるような作品ではなかったということです。つまり、その作品世界が過去のものではなく、決して亜流や物真似ではない彼女自身の現在進行形の創作行為の中から生まれたものだったということです。
彼女は真摯に自分の世界を切り拓こうとしている、そんな一途な姿を私はこの作品から感じました。そして志を持って書を学ぶ若い人たちには是非、彼女のこの姿勢を見習ってほしいと切に願うのです。
でもこんなことは当たり前のことだと私は思っています。
作品は、どこにでもあるようなありきたりのものや誰にでも書けるようなものではやはり面白くないし、何かその人らしい独自の世界や今までにない新鮮なもの、個性的な要素がなければ魅力がないでしょう。
人は一人一人顔や性格、考え方、そして人生そのものがそれぞれ全く異なるように、書の作品もまた一人一人違う顔や個性を持つのが自然、当然のことだと私は思います。
しかし、こんな当たり前のことが普通に当たり前に通用しないのが書壇というところ。今もって生き続ける師弟継承やお手本主義の書道の世界からは、どれもこれも似たり寄ったりのコピー作品のようなものばかりで、創造的で個性に溢れる新しい作品世界はほとんど生まれようがありません。
残念ながら、今回の「教員展」においても、何点かの好感の持てる力作や可能性を感じる作品もありましたが、多くの作品はあともう少しの努力、そして何よりもまず、“書芸術や“作品”ということに対する意識や考え方の大変革・大転換が必要だと感じるのです。
さて、この小林さんの作品「放つ」(作品題は、「解き放つ」)は、半紙一枚ほどの小さな紙面の中を実に大きく動いています。
線は細く、余白を広く取っていて作品空間は大きくゆったりとしています。しかし、わずか9本(九画)ながら、その線は太細や墨量の変化などの多様性を伴いながら、スピード感を持って決然として書かれており、緊張感(あるいは緊迫感)と強さを内包しているように感じます。
また、構成や空間処理も新鮮です。書作品は縦書き、横書きがほとんどで、上から下へ、あるいは右から左(または左から右)へと言葉通りに文字を書き連ねていきますが、今回の小林さんの作品は、紙面左上から始まり、右下へとまさに対角線を切り裂くように書き進んでいます。
“放”の旁部分“攵”の線と動きはとてもおおらかに無造作で心地よく、その右下の“つ”がそれを引き締めるように絶妙の墨量と位置、動き・形で受け止めています。もしこの“つ”が“放”の真下辺りに来ていたら、一挙に平凡なものになっていたでしょう。また印の位置がこの構成をより緊密なものにしています。
しかし、深読みかもしれませんが、この作品は決して何らかの解放感やご本人が作品説明の中で触れておられる“ココロの中のゆとり”から生まれたものではなく、人生の何かにもがき続ける作者の内なる声、自らへの問いかけや叱咤激励なのではないかと想像します。
授業など日々の実践へのアプローチやその振り返り、生徒との関わりやその成長への見守りなど、毎日繰り返されるであろう自問自答と試行錯誤の中から生まれた彼女自身への渇望の叫びなのかもしれません。
芸術作品、とりわけ書においては技術的な上手下手は第一義ではありません。上手い作品には「感心はしても感動はしない。」とよく言われますが、まさに“感動”は、技術的な上手下手とは全く別の次元の話です。
この小林さんの作品を観て私がこのような様々な勝手な想像を回らすことができたのも、この作品に感心したからではなく、この何か物語を想像させる独自の表現世界に感動と新鮮さを覚えたからです。
しかし一方、自らの内的な世界を表現するに過不足のない充分な技術と表現力があったからこそ、この一点が彼女自身の今を表現する作品として成立し得たということもまた、確かな事実です。
そういう意味で、優れた作品の成立には優れた技術が必要不可欠だと言えるのです。
技術とは既にあるものではなく、固定的なものでもなく、また誰にでも共通のものでもない、その人だけの固有のもの、自ら編み出し発見し、獲得すべきものです。
表現者自身、そしてその人の今を表現するのに最も相応しい方法、それを私は“技術”と呼んでいます。
自らの世界を切り拓くこと、それは自らの独自の技術、表現方法を確立し、更新していくことでもあるのです。